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【村上春樹が全ランナーの気持ちを代弁してくれる本】『走ることについて語るときに僕の語ること』感想

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どーも、走るとり(@hashirutori00)です。

 

毎日10kmランを390日続けて、フルマラソン後に膝を疲労骨折して、絶賛療養中の僕です。

 

走ることが好きで始めたわけではないのですが、走っていくうちに自然と好きになりました。トレーニングメニューとか、スポーツ科学の本を熱心に読んできたわけではないのですが、偶然たまたま村上春樹先生の本が目にとまりました。

 

その名も『走ることについて語るときに僕の語ること』

 

 

 

先生がどのようなメニューで走っているかなども詳細に載っているのですが、注目すべきは「村上春樹がランニングを表現するとどうなるか」ですよね。

 

内容紹介

もし僕の墓碑銘なんてものがあるとしたら、“少なくとも最後まで歩かなかった”と刻んでもらいたい―1982年の秋、専業作家としての生活を開始したとき路上を走り始め、以来、今にいたるまで世界各地でフル・マラソンやトライアスロン・レースを走り続けてきた。村上春樹が「走る小説家」として自分自身について真正面から綴る。

  

村上春樹の走っているときに考えること

走っているときにどんなことを考えるのかと、しばしば質問される。そういう質問をするのは、だいたいにおいて長い時間走った経験を持たない人々だ。そしてそのような質問をされるたびに、僕は深く考え込んでしまう。さて、いったい僕は走りながら何を考えているのだろう、と。正直なところ、自分がこれまで走りながら何を考えてきたのか、ろくすっぽ思い出せない。

(中略)

僕は走りながら、ただ走っている。僕は原則的には空白の中を走っている。逆の言い方をすれば、空白を獲得するために走っている、ということかもしれない。

 

空白の中を走っている。名言です。

 

走っているとき、僕はけっこう考えごとをします。仕事のことやプライベートのこと、あるいは二つをごちゃ混ぜにして。とにかく考えが止むことはない。頭が重たい感覚では決してなくて、止まっているときには考えもつかなかったアイデアが湧く時だってある。とても軽快に。

 

走り終わったときには汗とともに、今まで考えていたことがすーっと流れ落ちていくのだけれど。これが空白を獲得するってことなんでしょうか、先生。 

 

村上春樹の走るメリット

走ることにはいくつかの大きな利点があった。まずだいいちに仲間や相手を必要としない。特別な道具や装備も不要だ。特別な場所まで足を運ばなくてもいい。ランニングに適したシューズがあり、まずまずの道路があれば、気が向いたときに好きなだけ走ることができる。テニスではそうはいかない。いちいちテニスコートまで出かけなくてはならないし、相手も必要だ。水泳なら一人でできるが、泳ぐためには適当なプールを見つけなくてはならない。

 

・一人でできて

・金もかからなくて

・場所も選ばない

 

どのスポーツと比較してもこんな好条件のスポーツはなかった。

団体競技が苦手で(むしろやったことなくて)、一年中続けられるスポーツは筋トレかランニングに限ります。

筋トレ嫌いの僕がランニングを選ぶのに、そう時間はかかりませんでしたね。

 

村上春樹の走り続けられる理由

毎日走り続けていると言うと、そのことに関心してくれる人がいる。「ずいぶん意思が強いんですね」とときどき言われる。ほめてもらえればもちろん嬉しい。けなされるよりはずっといい。しかし思うのだけれど、意思が強ければなんでもできてしまう、というものではないはずだ。世の中はそれほど単純にはできていない。というか正直なところ、日々走り続けることと、意思の強弱とのあいだには、相関関係はそれほどないんじゃないかという気がする。僕がこうして二十年以上走り続けていられるのは、結局は走ることが性に合っていたからだろう。少なくとも「それほど苦痛ではなかった」からだ。

 

どんだけ暑い日でも、くっそ寒い日でも、習慣づいてしまえば、一歩外に踏み出すだけで毎日走れてしまう。意思が強いから走ってこれたのかといえば、うーん、それも違う。走ることは辛くないのかと言われれば、もちろん辛い「時もある」。

 

でも大半は走り終えた爽快感の方が優っていたし、楽しいと言える範囲で僕は楽しく走っていたのだと思う。

 

だから僕はランニングをまわりの誰かに勧めたことは一度もない。「走るのは素晴らしいことだから、みんなで走りましょう」みたいなことは、極力口にするまいと思っている。もし長い距離を走ることに興味があれば、放っておいても、人はいつか自分から走り出すだろうし、興味がなければ、どれだけ熱心に勧めたところで無駄だ。マラソンは万人に向いたスポーツではない。小説家が万人に向いた職業ではないのと同じように。

 

今でこそ、一人で黙々と走ることが好きになれたのだけれど、大勢で走ることに憧れた時期もありました。でもそれってやっぱり疲れる。自分のペースで淡々とこなすランニングが僕には合っていたんです。

 

それに周りの人にランニングの楽しさを伝えるってなかなか難しくて。そりゃそうだった。万人向けのスポーツではないことに気づいてなかったんです。

 

村上春樹の走ることの本質

同じ十年でも、ぼんやりと生きる十年よりは、しっかりと目的を持って、生き生きと生きる十年の方が当然のことながら遥かにこのましいし、走ることは確実にそれを助けてくれると僕は考えている。与えられた個々人の限界の中で、少しでも有効に自分を燃焼させていくこと、それがランニングというものの本質だし、それはまた生きることの(そして僕にとってはまた書くことの)メタファーでもあるのだ。このような意見には、おそらく多くのランナーが賛同してくれるはずだ。

 

走り始めてから、確実に変わることがある。それは「生きている実感」です。

日々、天気や気温・湿度は変化していますから、一日たりとも同じ日を走ることはありません。それに加えてその日の体調も揺れ動いているので、「今日はちょっと調子悪いかも」と、自分のことをより深く知ることもできます。

 

走ることで気づけることが本当に多い。

たまに息が上がって「死ぬかも」と限界に挑戦することだってあります。

 

流れる汗の量や心臓の鼓動の大きさで、あぁ今生きてるんだなって思うことがあります。

 

村上春樹の膝について

ハードな日々の練習を友とする長距離ランナーにとっては、膝は常に泣きどころである。走っていれば、着地するたびに体重の三倍の衝撃が足にかかってくると言われている。それが一日におそらくは一万回近く繰り返されるのだ。硬いコンクリートの路面と、理不尽ともいえる加重とのあいだで(そのあいだにシューズのクッションがはさまれているとはいえ)、膝はじっと黙して耐えている。そう考えてみるとー普段はほとんどそんなこと考えもしないのだがー問題が出てこない方がどうかしているという気がする。膝だってたまには文句を言いたくなるだろう。「鼻息荒く走るのはいいですが、少しくらいは私のことも気遣ってくださいよ。いったん駄目になったら代わりはいないんですからね」と。

 

体への気遣いを忘れると僕みたいに疲労骨折してしまうので、ケアは必ずしましょう。

膝は両方に一個ずつしかないので。

 

このまえ膝について真剣に考えたのはいったいいつのことだったろう?そう思うと、膝に対していささか申し訳ない気持ちになる。たしかにそのとおりだ。鼻息にはいくらでも代わりはあるが、膝には代わりはない。今あるもので死ぬまでやっていくしかない。だから大事にしなくてはならない。

 

故障するまでは、「毎日走っているし、無敵だろ」とか思ってたんですが、やっぱりそうはいかないのが人生。膝に代わりはいない。復活したらうんと大事にして走ることにします。

 

まとめ

ランニングについての考えをブログで書いていたりもしたのですが、(大変おこがましいのですが)僕がランニングについて言いたかったことが、全部この本に載っているなと感じました。文章も丁寧で、とくに膝を擬人化した表現は、読みながら思わず頷いてしまいました。膝よ、すまんかった。

 

 

みんな好きだから走ってんだ。

強制しないで、走りたいやつだけ自由に走ろうぜ。

 

だって「ランナーになってくれませんか」と誰かに頼まれて、道路を走り始めたわけではないのだ。誰かに「小説家になってください」と誰かに頼まれて、道路を走り始めたわけではないのだ。誰かに「小説家になってください」と頼まれて、小説を書き始めたわけではないのと同じように。ある日突然、僕は好きで小説を書き始めた。そしてある日突然、好きで道路を走り始めた。何によらずただ好きなことを、自分のやりたいようにやって生きてきた。たとえ人に止められても、悪し様に非難されても、自分のやり方を変更することはなかった。そんな人間が、いったい誰に向かって何を要求することができるだろう?

 

それではまた!